空手とは?

(はじめに)

15世紀に中国から琉球(今の沖縄)に渡り、日本で育った「空手」は、600年の時を経て、世界の188を超える国と地域で、柔道をはるかに凌ぐ6,000万人超の競技人口を擁する世界の武道、そして競技スポーツ「KARATE」へと進化・発展を遂げました。空手の歴史には諸説が存在しますが、その歴史の一端をご紹介します。
 

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「空手の歴史」

空手は昔、「唐(とう)手(て)」と書いてトウデ(トウディー)といいました。

「空手」という字になったのは、今から87年前の昭和四年(1929年)だったそうです。なぜかというと「唐手」は昔、中国から今の沖縄県である琉球王国という島に渡った武術だからなのです。

 

当時の中国は「明」(ミン)(1386年〜1644年)という時代で、皇帝は「洪武帝(コウブテイ)」という人でした。
洪武帝は当時積極的に人を派遣して琉球王国と貿易をしていました。その交流を通して中国の色々な文明と一緒に中国武術が伝わり、琉球固有の武術である「手(ディー)」と融合しました。
この術は、伝えられた場所、技術、
スタイルから大きく分けて、「那覇手(なはて)」、「首里手(しゅりて)」、「泊手(とまりて)」などと呼ばれました。

 

「首里」は琉球王国の首都であり、主に中国の北部の拳術の影響を受けて武士階級に普及しました。「那覇」、「泊」は貿易港があり、多くの中国人が行き来していたため、武術の交流も盛んで、ここでは、中国南部の拳術はじめ色々な拳術が伝えられました。その総称を「唐手」と言ったのです。だから「空手」のもととなった「唐手」は今の沖縄県で発達して行った武術なのです。

 

琉球王国はその後、徳川幕府時代に征服されて「薩摩藩」になり、当時の殿様である島津氏の時代も含めて
三回(二百五十年)にわたって「掟十五条」と
いう禁武政策を引き、農民などが武器を持つことを禁じました。
そんな時代背景の中、空手の教授は秘密裏に行われ伝えられて行きました。それは、人目につかないように夜に教えたり、場所も人里離れた墓地などで教えたそうです。
こういった秘密主義は薩摩の在番役人を警戒する必要であったためであり、また「掛け試し」などの挑戦を避けるためでした。

当時は道場などなく、師匠がとる弟子の数も少なかったといいます。他の日本武術と違って、空手には伝書はなく、口伝と実技だけで技が伝授されたようです。稽古は型の稽古が中心で一つの型の習得に3年を費やしたということです。組手は
一種の約束組手が存在しましたが、制度化された自由組手や試合などはなく、覚えた技を試したい者は、「掛け試し」などの実践を行う必要がありました。こんな感じで、「琉球唐手術」が琉球(沖縄県)独特の武術として、ひそかに伝えらえていったのです。

 

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時は経ち、その後、明治維新で薩摩藩による琉球王国支配が終わり、明治五年に「琉球藩」となり、さらに
明治十二年には「沖縄県」とし
て鍋島直彬が初代県令(今の知事)になりました。鍋島氏はとても教育熱心な人で県立師範学校などを設立して教員の養成に力をいれました。ここで沖縄古来の「琉球唐手術」が解禁になって
いったのです。

 沖縄からいまの本土にこの「唐手」を伝えたのは「富名腰(船越)義珍」(ふなこし・ぎちん)と言う人です。

富名腰(船越)義珍は、明治十八年、教員養成所を卒業して教員となったころ、当時首里手の名手といわれた安里安恒(あざと・あんこう)と言う人に「唐手」を教わり、県立師範学校で「唐手術」の指導をはじめました。そんなことで明治三十八年(1909年)には糸洲安恒(いとす・あんこう))が人間形成を目的とする体育として体系化して「琉球唐手術」が沖縄の学校の体育の授業になっていきました。ここで、今ではどの流派でも習う基本の形である「平安の形」が生まれたのです。
 

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首里城での空手演武

 

大正十一年のこと、東京で文部省主催の第一回体育博覧会が開かれ、富名腰(船越)義珍は、琉球唐手術を
紹介するチャンスを得ました。

これが本土に「唐手」が上陸した最初のことでした。当時の珍しさもあってとても話題になったといいます。

その後、富名腰(船越)義珍は、後に柔道の「講道館」を創設した嘉納治五郎(かのう・じごろう)などのすすめも
あって本土にとどまり、沖縄県人の学生寮
「明正塾」に住み込んで講堂を借りて唐手の普及の第一歩を踏み出したのです。そしてそこを拠点として大学や警視庁、海軍などに空手の指導をしながら広めていきました。

 

昭和四年(1929)、富名腰(船越)義珍は中国から来た武術という意味の「唐手」の文字をやめて、何も持たないという意味の「徒手空拳」(としゅくうけん)の「空」と仏教の教えである「色即是空 空即是色」の「空」をとって
「空手」という文字に変えたのです。

この「空手」と言う漢字が、あとになって「カラテ」「KARATE」として世界の共通の言葉として広まるまでになり
ました。

その後、富名越義珍は昭和十四年に東京・雑司が谷に道場を開設した折に、富名越の雅号「松涛」から道場名を「松涛館」(しょうとうかん)と命名したことから「松涛館流」が生まれました。

 

「四大流派の誕生」

〜極真空手も四大流派の中から分かれたもの〜

 日本の空手は大きく四つの流派に分かれています。

「首里手」出身の富名越義珍による「松涛館流」(しょうとうかんりゅう)富名越義珍に学び,柔術の長所を取り入れた大塚博紀が創始した「和道流」(わどうりゅう)、「那覇手」出身の宮城長順が創始した「剛柔流」(ごうじゅうりゅう)、首里手、那覇手、泊手の三系統を学んだ摩文仁賢和(まぶに けんわ)が創始した糸東流(しゅとうりゅう)です。その他にも色々な呼名の流派がありますが、大体がこの四大流派のどれかにつながっているか、そこから分かれて違う名前になっているものが多いのです。
 

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本土で活躍する空手家が一同に会する(1930年代)

 

例えば、ケンカ空手で有名な「極真会館」は、剛柔流の空手家であった大山倍達(おおやま・ますたつ)さんが、
独立して作った空手のスタイルです。
さらにそのお弟子さんが独立して作った「芦原会館」から石井和義(いしい・かずよし)さんが独立して「正道会館」を作り、そこが有名なピーター・アーツやアーネスト・ホーストなどが活躍した「K―1」を主催したのです。

ですから、形を見てみると、極真会館も芦原会館も正道会館も剛柔流の形なのがわかります。日本の四大流派以外の大体の流派は、このように枝わかれしていったものが、多いのです。

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東海大学空手部は、この四大流派の中の「和道流」(和道会)の空手をメインとして学び活動をしています。

和道流は、流祖の大塚博紀最高師範が、柔術の神道揚心流第四世を継承した修行者であったことから、
「捌き」「流し」「押し」「引き」「入り身」「転身」などの特徴を取り入れた空手です。

つまり、相手の正面からぶつかるのではなく、自分の正中線(身体の軸の線)を常に相手の攻撃目標からはずさせてやるものであり、極めて合理的で現代の組手試合に充分に対応できる空手になっているのです。

 

さて、空手の普及ですが、1924年(大正13年)ごろから次々に各大学に唐手研究会が発足して、1941年(昭和16年)に初めて全日本学生空手道演武大会が開催されました。

そして1950年(昭和25年)に学生空手連盟が結成されました。

このように主に大学を中心に発展して行った空手ですが、学生空手をモデルに1964年(昭和39年)には,
全日本空手道連盟が結成されてルールが統一化されて、
1969年(昭和44年)には、第1回全日本空手道選手権大会が開催されました。

 

やがて空手は、世界にも広がり名実ともに「空手」から「KARATE」として世界の共通語となって、IOC(国際オリンピック委員会)の公認国際競技団体として認可され、ついには2020年東京オリンピックの追加競技となったのです。

 

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